ちいさい頃のこと(親子喧嘩編)

こどものとき、親の言うことをものすごく理不尽だとかんじて憤ったことがある。

小学6年生とか、そのくらいのことだった気がする。
いちばんだいじなことなのに、内容は忘れてしまった、父と怒鳴りあいになって、殴られはしなかったけど、頭突きをされた、びっくりして悔しかったけど、わたしは父に似て石頭だからちいとも痛くなかった。
あとでじぶんの部屋で泣きながら、痛くなかったことを母に報告した。

わたしが自立してもいないのに、言うことだけは一丁前に生意気だったせいと、父の更年期と当時の職場での気苦労が大きかった、たぶんそのせいで、なんだか大きな親子喧嘩になってしまったのだった。
(立場が弱いものが正しいとおもうことを立場の強いものに主張するのを悪くいうつもりはまったくない、
ただやっぱり正しいことをひとに受け取らせるのは、つらいことの強要でもあるっておもう)


それでね、そのときわたしは本当に悔しくて
じぶんの口のききかたが生意気だって当時もわかっていたけど、でも言ってることはぜったい間違ってないとおもっていたから、そのへんにあったノートに、
こどもだからって間違っているとは限らないわたしはぜったい同じことはしない、わたしはおとなになってもいま考えていることを忘れない
って書いたのを覚えてる。

でも結局内容は忘れてしまったわけなので、ごめんあのときのわたし、
わたしおとなになっちゃったのかもしれないよ…


低学年の頃から、算数なんかを親に教わっているとき、なんでこんなことがわからないの!って叱られることがあって、なんでわかんないかわかってたらわかっとるわ!!ってこどもながらにおもっていて、
どうしてママはじぶんも昔わかんなかったってことを忘れちゃったんだろう…って小賢しい疑問を抱いていた。


じぶんがちいさい頃なにを考えていたか、あるいはなにかをはじめたとき終わらせたとき、なにを考えていたか、わたしは忘れたくなくてたまにこうして思い出している、
おもっているよりもこどもはおとならしいことを考えているし、じぶんがおとなの年齢になってみればこどもの時分とほとんどおなじで、経験値がちがうだけだから、なにごとにおいても経験値を育てることをだいじにしてみようかなって、そんなきもち
(きょうもがんばりましょう)