今朝のこと(近所のおじいさんと八百屋さん編)

毎朝41分発の電車に乗ると、予定では始業9分前に会社に着く。

およそ1時間半かけた3つの満員電車での通勤は、たいていどれかの線路に人が落ちるし、具合がわるいお客さまを途中で降ろすから、4分前くらいになる。
本当は31分発か、せめて36分発に乗りたいとは思っている。


それできょうは36分発には1分まにあわないくらいの時間に家を出た。どうせ間に合わないし、ゆっくり歩いて行けるな〜と住宅街の坂道をくだっていく。
坂道の終わる少し前、「ちょっと 」「ちょっと」という声が聞こえた気がした。
声というのは不思議なもので、しろうとでも意識を向けるだけでおおよそ飛ばしたい方向に飛ぶ。
自信がない報告なんかのとき、口のまわりに声がまとわりついたみたいにもごもごするのはそういうわけだし、上手い舞台役者の溜息はどんなに小さくてもお客さんの耳に届く。
それだから、わざわざわたしの耳にわたしにむかって投げかけられているのはだいたいわかっていた、でも、朝のこの時間に呼び止められるのはめんどうだなと思って、ギリギリまで気のせいだということにした。

まだ呼んでいる、まわりに歩行者はいない、屋内の家族に呼びかけているにしては、外まで声が飛びすぎだ。

坂を下りきった正面、トタン屋根の2階建て、外階段を見上げると玄関に、鼻にチューブをつないだ(たぶん自発的な呼吸が浅いから酸素を送っているのだろう)おじいさんが顔を出していて、わたしに声をかけていた。
しかたないからマスクをとって笑顔で顔を向ける、べつに笑顔の必要はないのに勝手に笑顔になる、愛想だけが取り柄の脊髄反射である。

おじいさんがなにか叫んでいるけど、なにを言うか予測がつかないので聞き取るのがむつかしい。
「やおや、わかる?そこの八百屋を呼んできてくれない」

その小さい路地は20歩くらいで商店街に出る。
すぐ向かいに八百屋さんがある。わたしが物心つく前からずっとある。
ご近所さんで、そこのおじさんとおばさんはお店やさんらしい、ひとの良いご夫婦で、わたしも子供心にたいした理由もないのにそのひとたちを好きで、よく懐いていた。
成長してからも、顔をあわせると まぁ大きくなったねぇ と言われたけれど、いつからか朝はお店が開く前、夜はお店が閉まった後にしか、商店街を通らなくなって、その間にずいぶん成長してしまって、おじさんもおばさんもわたしのことなんか覚えているかわからないし…と思って、目が合わなければ挨拶もしないで通り過ぎてしまうようになった。
本当はたぶん、覚えてくれているとおもう。

その八百屋さんと、そこの家のおじいさんが、おそらく家族なのだということは、きょうまで知らなかった。
うちの家族にわざわざ聞けば知っているだろうけれど、そんな用事もなかった。

そんなにからだが自由そうでもないおじいさんの頼みを、きかないわけにはいかない。
駅までは走ればそこから5分で着く、発車まであと8分ある、3分で解決しないと、道端で困っているおじいさんを助けました という理由で遅刻しなければならない。
普段の素行が悪くないから信じてもらえるかもしれないが、一昨日も電車遅延で5分遅れたばかりだ。

まだ開いていないだろう八百屋さんまで走る、いちおうシャッターを叩いてみる、いないよね、ひとの気配、しないもの。
八百屋さんの右隣は肉屋さんで、その境に小さい道とも言えない幅があり、奥へいくと裏口の玄関があった、中は暗いけどそこもノックして、上を見上げると2つ玄関が、きっとどちらかに住んでいるだろう、でもどちらかは賃貸かも、むやみにピンポン押すわけにはいかない、間違ったとき説明している時間はない。
なんならその小道のさらに奥にもアパートらしきものがあり、もしかしたらそっちに住んでいるかもしれない。ダメだ。

走って戻って階上のおじいさんに叫ぶ、
おみせ、あいてない!

どうすればいいの?は口に出さない、だってお店が開いてないってこともおじいさんには聞こえなくて、4回ゆっくりだんだん大声で叫んだ。
お店、あいてません!って最初は敬語をつかったけど、叫んでいるうちにわかりやすさを重視して、ぶっきらぼうなことばになった。

「横にボタンあるから!それ押して!呼んで!」
横とは…?と思ったけど、とにかく早く呼んでこないと時間がないし、ここで見捨ててなにかあったら寝覚めが悪い。
電話で呼ぶという選択肢はないのでしょうか…?と頭に浮かんできたけれども、そんなこと、あの耳の遠いおじいさんに聞こえる頃には八百屋さんも開店するだろう、
とにかくわたしは“横”にあるらしいインターホンを目指してもう一度走った。

扉もないのに、たしかに横にインターホンはあった。
さっき通った小道の、ごくごく手前にとつぜんインターホンがあった。ピンポンピンポン3回くらいたて続けに押したらおばさんが裏手から走って出てきた、あのドアのうち、どれかから出てきたのだろう。
よくあることなのかもしれない、すでに察した様子で、ごめんね〜!!つかっちゃって!!と声をかけてくれた、困ったわねぇという笑顔だ。
ずいぶん長いことろくに挨拶もしていないのに、思ったよりおばさんの顔を覚えていた、染めているのだろうか黒々とした髪のためにぜんぜん老けたように見えない。

そこのおじいちゃんに、呼んでくれって言われたので、すみません、よろしくお願いします!
それだけ言って走り出した、駆け込み乗車へ注意を促すアナウンスを聞きながら、41分発に駆け込んだ。
きょうはどの電車も遅れなかった。