同窓会のこと

もっとたのしめるような気がしていた、10年ぶりに会うみんなたちは、10年分しらないひとになっていて、毎日なんとなく顔を合わせていた頃とは確実に違う、見えない間のその変化が、あるいは変わっていないからこそ、知らない時間の溝を濃くしていた。


2時間の談笑のなか、途中、卒業前に撮影された記念のDVDが流された。部活ごととクラスごとに持ち時間を駆使して各々工夫された映像は、それはそれはエモくてわたしは泣きそうなきもちになったけど、「エモくて泣く」ということも、
10年前の高校時代にはあんまり考えたことがないことで(3年生の部活の引退前最後の文化祭の演し物が終わった後、もっといい作品がつくれたかもしれなかったのにここまでしかできなかった…っておもって当時見に来てくれたOBの、ぜんぜん高校とか関係ない彼女に、おわっちゃった…ってよしよしされながら泣いたのが唯一だとおもう)、実際きっと泣いたりしたら引かれるようなことの気もして、わたしはエモさに身をまかせることもできなくて
でもあんなに好きだった(ようにおもっていた)みんなたちがきょうこんなに集まって嬉しくないはずがないのになんでみんなこんなに緊張したり気を遣ったりしてるのかって
なにをしてもこのひとたちにならゆるされる気がしていたあの頃となにが変わってしまったのか
一生懸命文化祭のことだけ合唱祭のことだけ三送会のことだけがんばってたあの頃
だれがなにをがんばってても関係なくてじぶんががんばることだけをやってて、みんながみんながんばってるねって感じていた、そのがんばってる内容は決して生きるための必要に駆られたものじゃなくて純粋な趣味だった


いまや時は流れ、
それぞれの人生、嬉しいことも悲しいこともあって幸せだったりつらかったりそうでなかったりするなかで、
きっといまはいまでつるんでいるともだちがいて、それは学生の頃そうだったように、じぶんの立場や価値観の近い者同士が寄り集まっているのだろう。
当時は互いが選ばなくても、学力がだいたい似たような、なんとなく同じような価値観の生徒たちが自動的に入学して美術と音楽と書道のクラスに振り分けられて好きな部活をやるのだから、それで全員なんとなくともだち同士だったのだ。
だからあんなになかよくやれたのだ。
いまは、いまはみんな違う環境で違う立場で、ただ、社会通念で比較することができてしまう
それは途方もないことのような気がした、
10年前同じ場所でおなじ時を過ごした事実だけが、あのときみんななかよしだったよね という確認をしたいためだけのきもちが、どうにかこの場を保たせているみたいだった。

あのときひたすら明るくふざけていた女の子は今回も明るくふざけてみんなを笑わせてくれたけど、あれはぜんぶ演技なのかなっておもうくらい、その子とふたりだけで話した数分間、その子は、もういいトシだからなんとかしなきゃねってしきりに言っていた。
結婚している子は総じて余裕があるかんじを受けた。わたしが仕事の忙しさにかまけて結婚祝いもろくにできなかった女王様みたいな子にあらためてお祝いを言ったらやっぱりちょっと怒ってた。
とにかく仕事をがんばってて結婚とか二の次と言ってる子は、人生の大半は仕事をして過ごすんだからそこでなにかを成し遂げたいだれに評価されなくても全部を自分ひとりでやりたい他人に渡したりしたくないと言っていて、キャリアウーマンになってみようとした過去のあるわたしは、その子をとっても偉いなぁとおもいながらどこか遠い世界の話をきいているようで、
ひとの人生の話をきくということは、なんだかじぶんの人生をさておいて
別の次元に寄り添うみたいなきもちになるものだね。
人間の個体はひとつの次元なのかもしれない。



みんなが元気そうでよかった

(おやすみなさい)