睡眠(と父)のこと

眠れなくて困ったことは、ほとんどない。

年齢とともにどんどん寝つきが良くなっているんじゃないかと思う。

前職でちょっと気がおかしくなっているようなときも、不眠などの症状が出ればいよいよ病院行きだったのだけど、むしろ毎日、逃げるように眠りについた。
眠ってしまうとすぐにまた翌日になるので、それはとてもいやだったけれども、意識を現実に置いておく方がもっといやだった。


幼少のころは、眠る前に親にお話をしてもらったり、妹とでたらめにお話をつくりあったりした(妹とは架空の"ラジオお悩み相談室"ごっこをするのも一時期流行った。悩みも架空だった)
聞きながら途中で眠ってしまうよりも、ちゃんと「おしまい」を聞き届けてから眠る子どもだった。
その後で、目を閉じてお話の続きを考えて、そのうちに眠ってしまうのだった。
山の中腹の小屋で、女の子が動物たちとなかよく暮らしている想像をするのが好きだった。
たぶんその頃、学校で借りた本がそんな話だったような気がする。
父が話してくれた、うろ覚えのナルニア国物語っぽいお話のことも好きで、
高学年になってから、そうとは知らずに図書室で借りて読んだのだが、既視感をおぼえ不思議に思ったとき、ああ!あれか!と気づいた。

父は生身の人間があまり好きじゃなく、
アルプスの少女ハイジを好み、ジブリも好きで、つまりはテレビでもバラエティやニュースを見るよりアニメでチャンネルを止める人なわけで、
絵をかくのも工作するのも好きで作品は家中に点在しており、
大変今更ですが、わたしもわたしの妹もかなり父の影響を受けているものと、いまあらためて認識した。
音楽番組よりもアニメが好きだったし、いつまでたっても、ファッション雑誌よりも児童書が好きだ。

さて、そんな父から習った眠れないときの対処法がある。
幼稚園か小学生のとき習って以来、いまいち眠りづらいな??というときにやると、必ず眠れる。
やり方は以下のとおり。

①部屋を暗くして、腕と足をほどよく開いて仰向けに寝る
②ゆーーーーっくり息を吸って、ゆーーーーっくり吐くのを慣れてくるまで繰り返す
   肩があがらないで、おなかが膨らむように息を吸うとよいです。
③右手がだんだん重くなーる重くなーる
   このとき手がだんだん鉛みたいになっていく想像でもいいし、手に持った架空のボール的なものがだんだん重くなっていくのでもいい。
   とにかく重くて右手がふとんに沈みこんでいく。もう重くて動かない。
④左手、右足、左足もゆーーーーっくり順番にやっていく
   呼吸はずっと②のまま。
⑤やがて全身おもーくふとんに沈んでいく
⑥右手がだんだんあたたかくなーるあたたかくなーる
⑦左手、右足、左足も同様に
⑧ひつじを数える

ぜんぶめちゃくちゃゆっくり丁寧にやると、④や⑤の途中で眠れてしまう。
最終的にはひつじに頼ることになるけど、呼吸と手足と全身の重みに身をまかせているとスヤーッてなるよ。
最近知ったのだけど、深呼吸は自律神経を整えるのによいらしいので、父もどこかで習ったのだろう。


いまは朝だけどすでに眠いし、昼休みにつっぷしたら一瞬でよだれたらして眠るわたしにはほとんど必要なくなってしまったけど、
疲れた夜に深呼吸するのは
けっこうおすすめ



(おやすみなさい)

今朝のこと(近所のおじいさんと八百屋さん編)

毎朝41分発の電車に乗ると、予定では始業9分前に会社に着く。

およそ1時間半かけた3つの満員電車での通勤は、たいていどれかの線路に人が落ちるし、具合がわるいお客さまを途中で降ろすから、4分前くらいになる。
本当は31分発か、せめて36分発に乗りたいとは思っている。


それできょうは36分発には1分まにあわないくらいの時間に家を出た。どうせ間に合わないし、ゆっくり歩いて行けるな〜と住宅街の坂道をくだっていく。
坂道の終わる少し前、「ちょっと 」「ちょっと」という声が聞こえた気がした。
声というのは不思議なもので、しろうとでも意識を向けるだけでおおよそ飛ばしたい方向に飛ぶ。
自信がない報告なんかのとき、口のまわりに声がまとわりついたみたいにもごもごするのはそういうわけだし、上手い舞台役者の溜息はどんなに小さくてもお客さんの耳に届く。
それだから、わざわざわたしの耳にわたしにむかって投げかけられているのはだいたいわかっていた、でも、朝のこの時間に呼び止められるのはめんどうだなと思って、ギリギリまで気のせいだということにした。

まだ呼んでいる、まわりに歩行者はいない、屋内の家族に呼びかけているにしては、外まで声が飛びすぎだ。

坂を下りきった正面、トタン屋根の2階建て、外階段を見上げると玄関に、鼻にチューブをつないだ(たぶん自発的な呼吸が浅いから酸素を送っているのだろう)おじいさんが顔を出していて、わたしに声をかけていた。
しかたないからマスクをとって笑顔で顔を向ける、べつに笑顔の必要はないのに勝手に笑顔になる、愛想だけが取り柄の脊髄反射である。

おじいさんがなにか叫んでいるけど、なにを言うか予測がつかないので聞き取るのがむつかしい。
「やおや、わかる?そこの八百屋を呼んできてくれない」

その小さい路地は20歩くらいで商店街に出る。
すぐ向かいに八百屋さんがある。わたしが物心つく前からずっとある。
ご近所さんで、そこのおじさんとおばさんはお店やさんらしい、ひとの良いご夫婦で、わたしも子供心にたいした理由もないのにそのひとたちを好きで、よく懐いていた。
成長してからも、顔をあわせると まぁ大きくなったねぇ と言われたけれど、いつからか朝はお店が開く前、夜はお店が閉まった後にしか、商店街を通らなくなって、その間にずいぶん成長してしまって、おじさんもおばさんもわたしのことなんか覚えているかわからないし…と思って、目が合わなければ挨拶もしないで通り過ぎてしまうようになった。
本当はたぶん、覚えてくれているとおもう。

その八百屋さんと、そこの家のおじいさんが、おそらく家族なのだということは、きょうまで知らなかった。
うちの家族にわざわざ聞けば知っているだろうけれど、そんな用事もなかった。

そんなにからだが自由そうでもないおじいさんの頼みを、きかないわけにはいかない。
駅までは走ればそこから5分で着く、発車まであと8分ある、3分で解決しないと、道端で困っているおじいさんを助けました という理由で遅刻しなければならない。
普段の素行が悪くないから信じてもらえるかもしれないが、一昨日も電車遅延で5分遅れたばかりだ。

まだ開いていないだろう八百屋さんまで走る、いちおうシャッターを叩いてみる、いないよね、ひとの気配、しないもの。
八百屋さんの右隣は肉屋さんで、その境に小さい道とも言えない幅があり、奥へいくと裏口の玄関があった、中は暗いけどそこもノックして、上を見上げると2つ玄関が、きっとどちらかに住んでいるだろう、でもどちらかは賃貸かも、むやみにピンポン押すわけにはいかない、間違ったとき説明している時間はない。
なんならその小道のさらに奥にもアパートらしきものがあり、もしかしたらそっちに住んでいるかもしれない。ダメだ。

走って戻って階上のおじいさんに叫ぶ、
おみせ、あいてない!

どうすればいいの?は口に出さない、だってお店が開いてないってこともおじいさんには聞こえなくて、4回ゆっくりだんだん大声で叫んだ。
お店、あいてません!って最初は敬語をつかったけど、叫んでいるうちにわかりやすさを重視して、ぶっきらぼうなことばになった。

「横にボタンあるから!それ押して!呼んで!」
横とは…?と思ったけど、とにかく早く呼んでこないと時間がないし、ここで見捨ててなにかあったら寝覚めが悪い。
電話で呼ぶという選択肢はないのでしょうか…?と頭に浮かんできたけれども、そんなこと、あの耳の遠いおじいさんに聞こえる頃には八百屋さんも開店するだろう、
とにかくわたしは“横”にあるらしいインターホンを目指してもう一度走った。

扉もないのに、たしかに横にインターホンはあった。
さっき通った小道の、ごくごく手前にとつぜんインターホンがあった。ピンポンピンポン3回くらいたて続けに押したらおばさんが裏手から走って出てきた、あのドアのうち、どれかから出てきたのだろう。
よくあることなのかもしれない、すでに察した様子で、ごめんね〜!!つかっちゃって!!と声をかけてくれた、困ったわねぇという笑顔だ。
ずいぶん長いことろくに挨拶もしていないのに、思ったよりおばさんの顔を覚えていた、染めているのだろうか黒々とした髪のためにぜんぜん老けたように見えない。

そこのおじいちゃんに、呼んでくれって言われたので、すみません、よろしくお願いします!
それだけ言って走り出した、駆け込み乗車へ注意を促すアナウンスを聞きながら、41分発に駆け込んだ。
きょうはどの電車も遅れなかった。

インターネットの思い出のこと

インターネットと出会ったのは小学6年生のときのクラブ活動だったと思う。

3年生から演劇クラブで、耳のとおいおばあちゃん役として華々しくデビューした舞台を、6年生で降りようと決めたのは、
学校に入ったばっかりの新品のパソコンを使えるカッコイイワタシ に憧れたのと、入部当初はこじんまりと数名だったクラブ員が、なぜかぐんと増え、どちらかといえば先輩風を吹かせるよりも先輩について行きたいタイプだったわたしにとって、先輩のいなくなった大所帯に残るのは得策でないようにおもわれたからだった。


そうして入ったパソコンクラブで、なんのパソコン知識もないのに6年生だから副部長かなにかになった。

そのクラブでの活動内容は、実はほとんど覚えていない。
手始めにマインスイーパとかのゲームを習って、あれはクリックの練習だったのか、みんなで(個人で)興じたような気がする。
あとはペイントで、マウスを使って絵をかいたり一太郎で年賀状をつくったりしたかもしれない。
簡単な自己紹介のホームページもつくったような気がする。そのおかげで中学の「情報」の授業で同じようなことをやったとき、ちょっとよゆうな顔をしてやれたものだ、たぶん。

「情報」の授業っていまもあるんだろうか、あるとすれば「インターネットリテラシー」とかの単元があるにちがいない。
当時教わった注意事項は、インターネットに個人情報(氏名や顔写真)を載せると、必ず悪用されて社会的にしぬ みたいなことだった。そんな言い方じゃなかったかもしれないけれども、そのくらいのインパクトだった。
幼いわたしは、きっとエッチな裸の写真と合成されてもう二度と外を歩けなくなるんだわ、と本気で思っていた。
当時のわたしにFacebookInstagramを教えてあげたら、気が狂ってると思うに違いない。進歩した未来の技術でより自然に合成されてしまう。


そんなこんなでパソコンと雑に触れ合い、いつの頃かにチャットを覚えた。中学生くらいかと思う。
その頃はまた演劇部に入って少人数で和気藹々とやっていた。部員は全員女子だった。わたしはメガネでデブで、校則を厳密に守ったスカート丈だった、学年で厳しいと評判の先生に気に入られて、お墓の場所を教えるから将来お参りにきてねと言われた(現在もお元気で、年賀状だけはやりとりしている)。
チャットでは顔も名前もぜんぜん知らない人と話した、年齢と性別を偽りなく言うと、年上の男性(16とか23とか36とか様々だった)と思われるアカウントが寄ってきて、シークレットモードみたいなもので話しかけてきたりした。純粋無垢なデブスだったけど、意味がわからないほどバカではなかったから、現実ではぜったいにない、異性とのヒソヒソ話の雰囲気を楽しんでいた。相手のかたには御愁傷様である。
その頃は、インターネットで知り合った人と現実で会おうものなら、もれなく犯されて惨殺される という意識を持っていたので、その場は親しそうに話しても、それだけだった。H.N.も、本名からほど遠いものを適宜つけた。思い込みが激しいタイプでよかったとおもう 。

同じ頃に、当時大好きだったゲーム、アトリエシリーズの公式ウェブサイト「ざーるぶるぐどっとこむ」の公式掲示板では固定の名前でちょくちょく書き込みをして、何人かと仲良くなった。
ゲームの絵をかく個人サイトをやっている女の子と交流を深め、その子のサイトのお絵かき掲示板(オエビとか呼んでいた、なつかしいね。)によく描きにいった。wacomの白くて小さいペンタブもこの頃に買った。もう15年ほど経つ、あの時の顔も本名も知らないみんなたち、元気でいるのかしら。相手のハンドルネームももう覚えていない。

知らない人だけじゃなく、高校のともだちも自分のサイト(当時はホームページって呼んでいた)を開いたりして、その内容がまた、詩 とかで、もちろんわたしも掲示板に詩を書き残したり、ともだちの詩をポエミィな表現でほめたりした。ともだちは女子テニス部と剣道部だった。

当時が一番絵も字もかいた。

2年か3年、そんなことをした。
高校生になって、部活にのめりこんで、たまに馴染みの掲示板に行っても知っている人もまばらになって、それでそれまでのネット活動はやめてしまった。

代わりに、mixiが流行ったから、知ってる人にむかって日記をはじめ、詩や戯曲のまねごとをやってみせた。
日記よりも、そういう創作の方が、書く意味があるとおもっていた、日記はべつにひとに読ませなくても、紙に書けばいい気がしていた、いまもどちらかというとそうおもうのに、こういう長い日記みたいなものを、、だれかにむかって書いている、不思議だ。


2009年、twitterをはじめた。
ネットアイドルという言葉も知って、ちょうどその頃に、みやあるちゃんとお芝居関係で現実の友だちとして知り合った。
いまも、なのかもしれないけど、当時彼女は相当数のフォロワーがいて、このアカウントがこの人だ と知ったときは、けっこうな衝撃を受けた(彼女も、ネット擦れしていないように見えるわたしがtwitterにいることに衝撃を受けたらしかった)。
オフ会というのが架空の存在じゃないことも、インターネットのひとと現実で会っても必ずしも殺害されないことも、女のふりをした変質者だけじゃなく本物のキレイなお姉さんがいることも、彼女から学んだ。

twitterを始めた頃は、現実の知り合いを排除して活動していたから、それ相応のキャラづくりを目指したけれども、以前の記事で書いたように、みやあるちゃんに人生初のクラブイベントへ連れて行かれたときから、インターネット側のみんなたちと、クラブで知り合ってからtwitterをフォローするという流れになり、現実の知り合いが多い環境になった。
現実で会っていても、インターネット側のひとはインターネット側のひと、という気がしている。
すこしふしぎだけど、古い旧友よりも、オープンな心で付き合っているとおもう。優等生ぶってカッコつけたり、マジメなデブス時代を懐かしまれたりしなくて済むからかもしれない。
相手がわたしに どのタイプのわたし を望んでいるか、を、無意識に察知しようとしてしまうし、察知したら そのタイプのわたし で接してしまうから、
それは自然にやっていることで、べつに苦ではないんだけれども、だから限界があるのかも、
「嫌われないように生きるのって大変だけど、嫌われないように生きてるってバレたら嫌われちゃうよ」って結城蛍も言ってた(『もやしもん』4巻)、
求められるものを出せばある程度は納得されるかもしれないけど、CSのより高みを目指すにはそれだけじゃだめなんだ、顧客が必要だと感じる前に提案していくのがだいじなんだ、そういうことですか〜〜
どういうことですか〜〜


まだすこしインターネットの思い出(初めてのオフ会編)、あるけど、もうだいぶん長いし今回はこのへんで。

(きょうもがんばりましょう)

映画をみること(あと少し、しごとのこと)

ここ1、2年で、映画館によく行くようになった。よく行くと言っても月1くらい、行かない月もあったし2週連続で行くこともあった。

過去に見た作品がない分、TSUTAYAでのレンタルも増えた。

映画を映画館で見るひとと行動をともにするようになったのはもちろん、前職がテレビ関連で、映画を見に行けと脅しみたいに言われ続けてそれをかたくなに黙殺し続けた反動も大きいとおもう。
当時は映画やなんかの魅力を伝えるための言い回しとかそういうことばっかり考えていたから、頭の中の第二のじぶんはおもしろそうだなって思う映画やドラマもたくさんあったんだけど、それらのためにたいへんなおもいをしている表面のじぶんが、
わざわざ休日の自由時間までそれに関わることを拒否し続けていたのだった。
好きなことを仕事にすると嫌いになるっていうけど、べつにそこまでテレビっ子じゃなかったのにそうやって嫌いになっていたから、あんまり関係ないとおもう。

ちなみにいまは、幼少の時分から好きな布とはさみと触れ合い、なにを作り出すでもなく淡々と日々の割り当てをこなし、ひどい手荒れに悩まされてはいるけれども、布も服も一向に嫌いにならない。
しごとの内容が好きじゃなく納得もいってなくて拘束時間も並大抵でなく、つらいって言い続けているひとは、どうすればじぶんはつらくないのか、満足できるのか、ちょっと立ち止まって考えてみたり、身のまわりの友人にちゃんと相談してみると、べつにそこまでつらくない環境に身を置けることになるかもしれない、多少のがまんは必要だとしても、つらくない毎日はぜったいあるよ、っておもいます


それはさておき映画についてだよ


というわけでわたしは特に映画好きというわけでもなく、みんなたちが映画の話をあれこれしてると完全にわかんなくて、なぜそんなにたくさんの映画の感想を常に心の引き出しに持ち歩けるのか不思議で、尊敬していた。
なにしろ映画館でみた映画といえば、家族4人で初めて映画館へ行ったもののけ姫と、中学生のとき友人と行ったハリーポッターかなというくらいだったし、
DVDやなんかを見るのも、アニメ以外は学校の授業で過去の演劇作品やシェイクスピア映画を見るくらいだったように思う。

どうせ待ってればテレビでやるしわざわざ映画館で見る意味があまりわからなかった。
映画館で大きい音にさらされた後の、あの妙に世間の音が遠く小さく聞こえるかんじも嫌いだったし(その現象は最近感じづらくなった気がする、昔は耳がよすぎたのかしら、音響技術が進歩したからかしら)、
そもそも怖いものが極端に嫌いなわたしにとって、映画館初体験でのもののけ姫の、祟り神になりかけのオッコトヌシ様やドロドロになったシシ神様はめちゃくちゃな恐怖だったわけであり、しばらくトイレに行くのもこわくて(なんならジュラシックパークを家のテレビで見たときでさえ、トイレを開けたときあの大きい顔がいたらどうしようってしばらく怯えてつらい日々を過ごした)、いい思い出とは言えなかった。

それでもべつに嫌いというわけじゃなく、単に積極的に見に行かないだけで、気になる存在ではあった映画館。

前職を、辞めてやった!辞めてやったぞー!!わたしだってテレビや映画のこと、べつにきらいなわけじゃないんだからねッッ!!!!というひねくれた開放感の後押しもあって、
前述のとおり、折をみて行くようになったのだった。

行くようになってみると、やっぱり映画は映画館で観るのがいいなとおもうようになった。
良い映画ほど、映画館で観てよかったなとおもう。
画面の大きさあってのダイナミックさ、細部まで丁寧に処理されているのがわかる映像、本当にその場にいるように感じる音響はもちろん、
映画館ならではのマナーである、携帯をいじっちゃダメっていうのが良い。家で見ていたらできない集中がそこにある。
そもそも暗いからほかのことは見えないし内職のしようもないし(そもそもお金と時間をつかって見に行っているのだから別のことをする気にはならないけど)、
なんなら少し良い座席のエグゼクティブシートみたいなものになると、もはや隣の人も遠くて顔も存在もわからず孤独の中ひとり映画に集中することになる。

その分、じぶんに合わない退屈な映画の場合は苦行になるけれども、
そういうときにはその映画のどこがどうダメか考えながら見ることによって、自分自身の趣味嗜好への理解を深めることができる。

映画or自分に集中できる場所is映画館、とおもう。
映画に限らず、他人がつくったなにかを見てなにかをおもうということは、その他人を知ることでもあるしじぶんの価値観を知ることでもある。

あとわたしは気が短くて堪え性がないから、映画は2時間で完結してくれるところも良い。
ドラマとか、特に恋愛ものなんか、どうせくっつくのに延々と山あり谷ありで毎週ハラハラし続けるのには、めんどくさくて正面から向き合えない。携帯いじっちゃうし途中でトイレ行くしお茶も沸かしちゃう。
映画も自らラブ関連はあんまり見ないけど、最近友人からいただいた『アバウト・タイム』はとってもとっても好きだったのでどんどんオススメしていきたいとおもっています!
あれはとてもすごい、
善意がすごくすごい、
脚本をとにかく褒めたい。
この世で見てきた絶望を覆してくれて、ほんとに大好きです、希望をありがとう、
見たことなかったら見てみてほしいよ、
ヒロインがとってもキュートよ!


それから、ご使用の方も多いかと存じますがtwitterの映画情報版みたいなアプリ(Filmarks)で、映画のじぶんの満足度を点数にしてつけられるんだけど、点数順に並べると、それもまたじぶんの趣味嗜好が可視化されておもしろいなーというのがここ3日くらいでの気づきだよ。
過去に見てそんなに覚えてないやつはだいたい真ん中くらいの点数にしちゃうから、ほんとはどうだったのかもう一度見たいやつも多いよ。


わたしと映画の関係は、だいたいそんなかんじです。
(おやすみなさい)

同窓会のこと

もっとたのしめるような気がしていた、10年ぶりに会うみんなたちは、10年分しらないひとになっていて、毎日なんとなく顔を合わせていた頃とは確実に違う、見えない間のその変化が、あるいは変わっていないからこそ、知らない時間の溝を濃くしていた。


2時間の談笑のなか、途中、卒業前に撮影された記念のDVDが流された。部活ごととクラスごとに持ち時間を駆使して各々工夫された映像は、それはそれはエモくてわたしは泣きそうなきもちになったけど、「エモくて泣く」ということも、
10年前の高校時代にはあんまり考えたことがないことで(3年生の部活の引退前最後の文化祭の演し物が終わった後、もっといい作品がつくれたかもしれなかったのにここまでしかできなかった…っておもって当時見に来てくれたOBの、ぜんぜん高校とか関係ない彼女に、おわっちゃった…ってよしよしされながら泣いたのが唯一だとおもう)、実際きっと泣いたりしたら引かれるようなことの気もして、わたしはエモさに身をまかせることもできなくて
でもあんなに好きだった(ようにおもっていた)みんなたちがきょうこんなに集まって嬉しくないはずがないのになんでみんなこんなに緊張したり気を遣ったりしてるのかって
なにをしてもこのひとたちにならゆるされる気がしていたあの頃となにが変わってしまったのか
一生懸命文化祭のことだけ合唱祭のことだけ三送会のことだけがんばってたあの頃
だれがなにをがんばってても関係なくてじぶんががんばることだけをやってて、みんながみんながんばってるねって感じていた、そのがんばってる内容は決して生きるための必要に駆られたものじゃなくて純粋な趣味だった


いまや時は流れ、
それぞれの人生、嬉しいことも悲しいこともあって幸せだったりつらかったりそうでなかったりするなかで、
きっといまはいまでつるんでいるともだちがいて、それは学生の頃そうだったように、じぶんの立場や価値観の近い者同士が寄り集まっているのだろう。
当時は互いが選ばなくても、学力がだいたい似たような、なんとなく同じような価値観の生徒たちが自動的に入学して美術と音楽と書道のクラスに振り分けられて好きな部活をやるのだから、それで全員なんとなくともだち同士だったのだ。
だからあんなになかよくやれたのだ。
いまは、いまはみんな違う環境で違う立場で、ただ、社会通念で比較することができてしまう
それは途方もないことのような気がした、
10年前同じ場所でおなじ時を過ごした事実だけが、あのときみんななかよしだったよね という確認をしたいためだけのきもちが、どうにかこの場を保たせているみたいだった。

あのときひたすら明るくふざけていた女の子は今回も明るくふざけてみんなを笑わせてくれたけど、あれはぜんぶ演技なのかなっておもうくらい、その子とふたりだけで話した数分間、その子は、もういいトシだからなんとかしなきゃねってしきりに言っていた。
結婚している子は総じて余裕があるかんじを受けた。わたしが仕事の忙しさにかまけて結婚祝いもろくにできなかった女王様みたいな子にあらためてお祝いを言ったらやっぱりちょっと怒ってた。
とにかく仕事をがんばってて結婚とか二の次と言ってる子は、人生の大半は仕事をして過ごすんだからそこでなにかを成し遂げたいだれに評価されなくても全部を自分ひとりでやりたい他人に渡したりしたくないと言っていて、キャリアウーマンになってみようとした過去のあるわたしは、その子をとっても偉いなぁとおもいながらどこか遠い世界の話をきいているようで、
ひとの人生の話をきくということは、なんだかじぶんの人生をさておいて
別の次元に寄り添うみたいなきもちになるものだね。
人間の個体はひとつの次元なのかもしれない。



みんなが元気そうでよかった

(おやすみなさい)

ちいさい頃のこと(親子喧嘩編)

こどものとき、親の言うことをものすごく理不尽だとかんじて憤ったことがある。

小学6年生とか、そのくらいのことだった気がする。
いちばんだいじなことなのに、内容は忘れてしまった、父と怒鳴りあいになって、殴られはしなかったけど、頭突きをされた、びっくりして悔しかったけど、わたしは父に似て石頭だからちいとも痛くなかった。
あとでじぶんの部屋で泣きながら、痛くなかったことを母に報告した。

わたしが自立してもいないのに、言うことだけは一丁前に生意気だったせいと、父の更年期と当時の職場での気苦労が大きかった、たぶんそのせいで、なんだか大きな親子喧嘩になってしまったのだった。
(立場が弱いものが正しいとおもうことを立場の強いものに主張するのを悪くいうつもりはまったくない、
ただやっぱり正しいことをひとに受け取らせるのは、つらいことの強要でもあるっておもう)


それでね、そのときわたしは本当に悔しくて
じぶんの口のききかたが生意気だって当時もわかっていたけど、でも言ってることはぜったい間違ってないとおもっていたから、そのへんにあったノートに、
こどもだからって間違っているとは限らないわたしはぜったい同じことはしない、わたしはおとなになってもいま考えていることを忘れない
って書いたのを覚えてる。

でも結局内容は忘れてしまったわけなので、ごめんあのときのわたし、
わたしおとなになっちゃったのかもしれないよ…


低学年の頃から、算数なんかを親に教わっているとき、なんでこんなことがわからないの!って叱られることがあって、なんでわかんないかわかってたらわかっとるわ!!ってこどもながらにおもっていて、
どうしてママはじぶんも昔わかんなかったってことを忘れちゃったんだろう…って小賢しい疑問を抱いていた。


じぶんがちいさい頃なにを考えていたか、あるいはなにかをはじめたとき終わらせたとき、なにを考えていたか、わたしは忘れたくなくてたまにこうして思い出している、
おもっているよりもこどもはおとならしいことを考えているし、じぶんがおとなの年齢になってみればこどもの時分とほとんどおなじで、経験値がちがうだけだから、なにごとにおいても経験値を育てることをだいじにしてみようかなって、そんなきもち
(きょうもがんばりましょう)

写真が消えた話

とてもかなしいことがあった。2013年10月以降のiPhoneで撮った写真が、みんな消滅してしまった。

予兆は2年前からあった、写真の同期がどうしてもできなかったのである。なんらかのエラーが発生したとかで、何度やっても読み込みが中止されてしまうのだ。
 
わたしは認めたくないけれどもどう考えても機械音痴なので、どうにもできずに放っておいたのだが、ここ最近はiPhoneをアップデートしていないせいでアプリたちを更新することができなくなって不便だったし、Twitterではみんながいいね♥︎問題についてわいわいしている中、ずっとお気に入り☆のままで、わたしは☆をつけててもみんなたちからは♥︎をつけたように見えるし☆をもらったとおもっていても♥︎をもらっているのか〜という整合性のとれなさがきもちわるく、ディスコミニュケーション反対!!ということでついに重い腰をあげ溜まりに溜まった数万枚の写真整理に乗り出したのだった。
 
さて、
その結果として、ここ2年間の写真は消えてなくなってしまった。
PCなどの技術に長けたかたにいろいろやっていただいたけれどむりでした、ありがとう…手を尽くしていただき本望です…
いま、一晩眠って目覚めたところだけれども、気に入っていたやつたちを思い出してわたしは、ちょっぴりだけかなしいなっておもっている。
消えてしまった当初は、なんかもう、カタチあるものはすべて壊れると思っているけど、データって手に取れないけどカタチなんだなぁ儚いよなぁというきもちで、もともとこういうこと↓

 を思っているタイプの人間だったので、なす術もないし意外とすんなり受け入れていたっぽかったんだけど、やっぱりちょっとかなしい。

 
具体的にいうと、もう二度とないかもしれないだいじな展示の写真とか、FaceTimeのむこうではしゃいでいるひとのスクショとか、個人的にたいせつだけどひとに見せるものでもないからインターネットに投げてない日常とか、ヤバいからインターネットにもあげられないし他のひとと画像共有をすることもできなかったわたしの好きな女の子であるところのこなちゃんのプールでのお着替え画像とか、こなちゃんの寝顔とか、寝起きでイチジク切ってくれてるとことか掃除機かけてるとことか鏡にむかってメイクしているとことか……わたしだけじゃない、それらのこなちゃん画像をVJ素材として共有していたsd_pajero氏もそのほかあらゆるこなちゃんファンのみんなたちの享受すべきであった貴重な資料たちがこの世から喪われたことをおもうと心が痛む。
こなちゃんの恋人のかたの次にこなちゃんのいい写真を撮っている自信があるし、質より量なら勝っている可能性もあった。
ただ、今年1月までのこなちゃん画像のエッチ過ぎないやつはVJのかたに共有済みなので、丸々2年分喪われたわけではないことは救いでした。よかったです。
 
そう、
そういうわけだから、なんかこうひとと共有すべきな可愛い子とか、非日常な旅行の写真とかはiCloudで共有してたりしてたからよかったものの、
誰とも共有しないけど1枚みたら100エモい写真とかがなくなっちゃったのがさみしくてかなしい。
 
おもいでは、たとえばいっしょに経験したひとりでもふたりでも大勢でも、が、みんな忘れてしまったら、わたしひとりしか覚えていないことがあったら、そのことは果たしてほんとうにあったのか、わたしがみた夢や空想と同じことじゃないか?本当に夢や空想だったかもしれないね?っておもっているから、
写真というカタチでのこっているのは、ほんとうにあった証みたいにかんじていて、
忘れてしまったひともきっと、話を聞いて思い出せなくても、写真を見たらそんなことあったねって思い出すかもしれないし
普段全然見なくても、見られる量をはるかに超えて一生見ないかもしれなくても、なんかそこにあってくれたらよかった。
 
こんなこと写真警察のみなさんが聞いたらお怒りになるかもしれないし
むしろ写真が消える前に整理してたら本当にいらない写真が多くてつまりどうでもいいとおもってるおもいでが多くて、撮った後はちゃんと冷静に整頓しよっておもったんだけど、
でもあれだね、どうでもいいことほどぜんぶ忘れちゃうから、だいじなおもいではなにもなくてもおもいだせるけど、どうでもいいことを撮っておかないとほんとに全員忘れて、なかった現象になっちゃうから、わたしはそれがなんか心許なくて、どうでもいいことなんだからどうでもいいはずなのに、とっておいたのかもしれないね。
 
まぁでもデータが多すぎると年代物のiPhoneや年代物のMacBookや機械音痴のわたしには負担となりこのようにどうでもよくなくない写真まで消滅して諸行無常への理解が進みものごとに対する執着を手放しあるがままを受け入れる禅的なレベルがあがるので手軽に修行したいひとにはおすすめ。
 
わたしはべつに修行したくないので今後はWi-Fi環境やクラウドサービスを駆使し日々すこしずつ同期しバックアップをとっていきたいとおもいます。
この機会に長年とったことがなかったPC本体のバックアップをとることにも着手でき得たものもあった。あったよ。
 
 
おもいではこころのなかにあるけど
わたししか持ってなくって見せなきゃひとにもおもいだしてもらえないことたちよ
わたししかおぼえていないけど、絶対あったから、自信をもって存在してくれ!
 
 
2013年10月25日以降のわたしやわたしにまつわるおもいで写真の寄付、おまちしております!!!!
(おねがいします)
 
 
\(°ω°)/